武蔵野中央公園

どこで知ったか、記録が残っていない。新聞の書評欄ではない。図書館で見つけたのかもしれない。

本書は学術専門書というより、博識の学者が書いたエッセイ。縦横無尽に引用しながら、英国史の専門家は、序章で18世紀に起点を置き、現代まで「孤独」の歴史をたどる。

分厚く、縦横無尽に一次資料から引用するので読みやすい本ではなかった。興味がわいたところから拾って読んだ。

近代、主にイギリス社会における孤独のありようを紐解きながら、まず著者は「孤独」(solitude)と「孤立」(loneliness)を峻別する。「孤独」には単に一人でいるだけでなく、他者との緩やかな関わりがある。修道院や監獄の独房のような物理的にも閉鎖された場所で過ごすことを著者は推奨しない。

孤独は労働や家族から離れて過ごす一人の時間。そこには娯楽も入るけれど、娯楽は商業主義、すなわち消費と結びつきやすい。最も簡単な過ごし方であるトランプから、切手収集などのコレクション、さらには現代でもてはやされている「マインドフルネス」まで、孤独の過ごし方は単なる消費になってしまう危険性があると著者は警告している。

本書のなかでとりわけ興味深いのは、現代における「孤独」のありようを語る章だろう。

本書で一貫して見てきたように、技術と消費者市場はずっと変化の牽引車だった。それらのおかげで、教養ある男性の特権だった意識的にひとりになる体験が、後期近代にはとりわけ貧しい者と無関心な者を除くすべての人の習慣になったのである。この意味でスマートフォンは型破りなイノベーションではなく、手紙、印刷物、電話、映画、テレビを経てきた旅の到達点だといえる。かつての世代にとっては、個人が社会から自分の意思で離れ、同時に特定の集団や個人とすぐに連絡をとれる機器など夢のなかにしか存在しなかった。(「終章 デジタル時代の孤独」)

一見、理想に近づいたように見える現代の「孤独」。しかし、著者は皮肉を忘れず「周囲の人ごみから精神的に引きこもった状態で、手にモノを持って無言で前かがみになる現代を象徴する人の姿」とも書いている。

では、望ましい孤独の過ごし方はどのようなものか。すでに述べたように単に一人でいるだけではなく、他者と緩やかにつながりを持つことを著者は理想としているようにみえる。この点は現代のIT技術で可能になった。

もう一つ、著者が重視するのが自然との関わりと適度の身体的運動。散歩や徒歩での旅を望ましい孤独の過ごし方と考えている。庭仕事もやはりいいらしい。これは意識してしないとできない。

私にとって孤独とは何か。平日は孤立感と疎外感が強い。会社の人とはメールや電話会議はしても雑談はない。和むのは妻が帰宅してから。

週末は、一人でも充実しているように思う。美術館へ行ったり、植物園へ行ったり。そういうときは一人でも嫌な感じはない。充足した孤独を楽しめている。

Twitter(現X)上で「気が合いそうだな」と思う人はいても、DMも送らないし、直接会うこともない。

私の暮らしは孤立と孤独のあいだで揺れている、と言えるだろう。


さくいん:孤独エッセイ