昨年、日経新聞の書評で知った本。幸い、図書館ですぐ借りることができた。
著者は武蔵野で育ち、現在も居住しているという。著者がイメージしている武蔵野は野川を中心としていて武蔵小金井から国分寺あたりを指している。幼少期は府中で過ごしたという。
横浜の南端で育ち、社会人になっても実家暮らしをしていた私も1992年に結婚して以来、長らく武蔵野で暮らしている。狛江、杉並、武蔵小金井、東伏見、三鷹と東京の西郊を移動してきた。大学院は野川の近くだったし、府中で働いていたこともある。私の「武蔵野」は東西には荻窪の大田黒公園から国分寺の殿ヶ谷庭園あたりまで、南北は西武新宿線から京王八王子線まで。
私の場合、武蔵野はそのまま中央線沿線のことでもある。長く住んでいるのはこの土地が気に入っているから。本書にも武蔵野への愛情があふれている。
専門書のように書きたくないと述べているので、本書は、武蔵野の自然と、それを描いた文学や映画を紹介しながら散策するようにポツポツと書き進めている。読者の私も、草木を眺めて寄り道しながら散歩するように興味のわいた章から拾い読みをした。
黒井千次、北條民雄、田村隆一、福永武彦、宮崎駿。私にもなじみのある作家が武蔵野を描いた作家として次々に現れる。武蔵野の範囲も、北は保谷、南は深大寺、東は戸山あたりまで広がっていく。
著者は「武蔵野は移民の大地」と主張する。なるほど、そういう面もあるかもしれない。私自身も横浜から流れてこの地に着いた。吉祥寺は江戸時代に大火のあとで造成された復興新田だった。でも、そこへ移住した人の末裔がいまも小規模ながら畑を持ち、野菜を直売している。我が家の近所にある直売所が『ブラタモリ』に登場していた。彼らはもはや武蔵野の原住民と言ってよいのではないか。私はそう思う。
武蔵野を描いた作品として古田足日『もぐら原っぱのなかまたち』が取り上げられている。これには大きく頷いた。
国木田独歩『武蔵野』も大岡昇平『武蔵野夫人』も読まずにいる私にとって、武蔵野とは、昭和の児童文学の舞台。同じ古田の作でいまでも読み継がれている『大きい一年生と小さい二年生』。おそらく立川あたりを舞台にしている森忠明『きみはサヨナラ族か』。
原作では大阪だった舞台を東京の郊外に変えてドラマ化した眉村卓『なぞの転校生』も。いずれも明記してはいないものの、描かれているのは赤坂が「原風景」と呼ぶ武蔵野の風景。
『大きい一年生と小さい二年生』には地図がついている。はらっぱ、神社、湧水、雑木林。林の向こうにある団地。線路や街道沿いにある工場。
私が育った昭和50年代の横浜南端のニュータウンでも開発と自然が入り混じり、こうした武蔵野を思わせるような風景が残っていた。ススキが茂るはらっぱで野球や缶けりをしたり、八百屋で段ボールをもらって草の斜面を滑ったりして遊んだ。小学校の裏山を登り切り通しを通り鎌倉まで歩いたりもした。
だから、少年時代を武蔵野で過ごしたわけではないのに、武蔵野を舞台にした児童作品にある種の郷愁を感じる。
おそらく私と同じ世代で郊外の新興住宅地で育った人の中には、場所は違っても、開発と自然が入り混じった環境で少年少女時代を過ごした人も多いのではないか。私が育った所はその後、宅地として完成してしまい、今では自然は遠景にしかない。武蔵野にはかろうじて「武蔵野らしい自然」が残っている。それはなぜか。
いま武蔵野には自然にできたはらっぱや雑木林はほとんどない。その代わりに、よく整備された公園や植物園がたくさんある。その多くは戦後米軍に接収されていて、それゆえに乱開発に巻き込まれなかったという歴史の皮肉が背景にある。
私の子どもたちはそういう新しい武蔵野で育った。彼らははらっぱも雑木林も知らない。でも、小金井公園のそりスキーの斜面や人工的に創作した武蔵野中央公園の「はらっぱ」の風景は、彼らの彼らの心にいまも刻まれているだろう。
追記。武蔵野でなぜ多くの場所が接収されていたのかと言えば、そこに軍事施設があったから。自然と文学を題材にする本書では触れていないけど、武蔵野が兵器工場地帯であった事実はこの地を語るうえで避けては通れない。
さくいん:赤坂憲雄、東京、黒井千次、北條民雄、田村隆一、福永武彦、宮崎駿、『ブラタモリ』、森忠明、少年ドラマシリーズ、横浜、鎌倉、小金井公園
