先週の木曜日。湯河原へ一泊旅行をした。結婚記念日の記念旅行。これまで旅行というといつも2泊以上していた。1泊の小旅行は初めて。
7月に高校の同級生3人で会津の温泉に一泊した。その小旅行で、一泊でも十分に楽しく、リフレッシュできることがわかった。
行き先を選ぶ条件は、近くて、行ったことがなくて、温泉が有名なところ。
新宿からロマンスカーに乗ると1時間11分で小田原に着いた。ほんとに近い。
ランチは小田原駅の駅ビル、鮮魚売り場の隣りで小田原丼。ちょっと東京では見られない刺身の大盛り。イートインでセルフサービスにしてコストを抑えた分だけ、食材に贅沢にしている。おいしいランチで幸先がいい。
小田原からJRに乗り換えて湯河原へ。春に下田へ行ったときは特急だったので、海の景色をゆっくり見られなかった。今回は、車窓から相模湾がよく見えた。稲村ヶ崎や江ノ島で区切られているためにこぢんまりとしている逗子や鎌倉に比べて、ここの景色は雄大。
新宿・湘南ラインや上野・東京ラインができたおかげで熱海から宇都宮まで一本の電車が走っている。湯河原駅で宇都宮という行先表示を見て、その距離の長さを想像して思わずため息をついた。
湯河原を選んだ理由はもう一つある。それは森有正が投宿して執筆していたこと。流行りの言葉で言えば、推しにゆかりのある聖地巡礼。「遥かなノートル・ダム」の一節。
パリへ赴く前の数日を、湯河原で静かに過ごしている。十国峠へ向う山のはざまの旅館には客もほとんどなく森閑としている。ただ谷川のせせらぎだけが響いて、かえってあたりの静寂を深くしている。十一月の空は飽くまで澄み、午後の日ざしが明るく座敷の中まで刺しこんでいる。
ほかにも、『砂漠に向かって』のあとがきもにも「奥湯河原にて」とある。
森有正が泊まった場所かはわからないけど、選んだ宿は小林秀雄をはじめ、昭和の文士や経営者が多く泊まったという宿だった。
とにかく森有正が来て、執筆をしたということ。それだけで私には十分。
今回、泊まった旅館。加満田。奥湯河原行きバスの終点の先にある。まさに山奥の秘湯という感じ。
建物は昭和レトロの味わい。サッシでない木の枠の窓。くるくると回して締める鍵。薄暗い蛍光灯。幼い頃、祖父母の家へ遊びに行った日を思い出した。
休みに来たので、特別なアクティビティは何もしない。温泉に入り、ビールを呑み、昼寝をして、おしゃべりをする。そうして夜の宴を待った。
建物や施設の古さは隠しきれない。でも、料理はすべて絶品だった。とくに鴨のコンフィがおいしかった。
食事のあいだの会話はいつも同じ。「家族、皆、大病や大けがをせずにやってこられて幸運だったね」「次はどこへ行こうか」「年をとっても旅行に行けるように、運動をして食事に気をつけて健康を維持しようね」。毎度、確かめるように同じ会話をしている。
一つだけ、心配ごとを話した。こんな風に毎年、気温が上がり、少子化がどんどん進み、政治家はロクなことをしない。つくづく嫌になってくる。
孫の顔を見たいという願望もある一方、これから生まれてくる人たちは苦労ばかりするのが目に見えているから、このまま少子化が進んで人類は滅んだほうがいいのではないか。
ほろ酔い加減で、そんなことをつぶやいた。
もちろん、旅館で豪華な夕飯を食べながら話したところで結論が出るような話ではない。そもそも、子どもを産むべきか、人類は滅ぶべきか、それを決めるのは親になる当人たちであり、私が口をはさむべき問題ではない。それはわかっているつもり。
それでも、妻が私の不安について同意してくれたことはうれしかった。
温泉は大浴場、2か所、露天風呂、2か所、それから部屋にある内風呂。すべて入った。
温泉は無色無臭。保温力と保湿力があって、風呂上がりもしばらく身体が火照っていた。
翌朝、早く起きたので二人で宿の庭園を散歩した。庭園というよりほぼ雑木林。竹と杉の木陰になっていて涼しい。藤木川に注ぐ渓谷には滝があり、激しい音を立てて流れている。
きっと紅葉の季節は見事だろう。今回は平日だから空いているけど、さすがに紅葉の季節には満室に違いない。
庭園には池があり、灰色の鯉がたくさん泳いでいる。妻は玄関にあったエサを池に投げて鯉に食べさせていた。
チェックアウトしたあとはバスに乗り、観光名所の不動滝へ。前日、来たときには気づかなかったけれど、かなり山を登ってきたらしい。下り道の傾斜がきつい。
不動滝は高さはそれほどでもないけど、落ちてくる水量が多く、激烈な印象を残した。
不動滝から歩いて坂道を降りていくと町立美術館があった。もともと旅の計画には入れてなかった。時間もあるので、覗いてみると、これが意外にいいところだった。
展示されているのは主に日本画家、平松礼二の作品。来年、就航する飛鳥Ⅲの船内を飾る作品が展示されていた。乗船したことがある飛鳥Ⅱは「日本」をアピールしている。そのコンセプトに平松の作品はぴったり。細かく描かれた桜の花びらが美しい。日本の四季を美しく描いた作品は乗船客を魅了するだろう。
旅先で訪ねる美術館は混んでいないところがいい。今回のように、思いがけない出会いもある。思い出せば、尊敬する作家、森山啓とは、出張帰りの空き時間に立ち寄った図書館で偶然に出会った。
小旅行の締めくくりは、32周年を祝うランチ。ネットで見つけたフレンチ・レストラン、圓。記念なので、ちょっと奮発した。一軒家で内装もモダン。さっきまでの昭和レトロから一気に令和の雑誌で紹介されそうな空間だった。とはいえ、行ったことがないので味は食べてみないとわからない。
平日のランチなので、食事を終えるまで客は私たちだけだった。
スパークリングワインで乾杯したあと、料理が運ばれてきた。おいしい。どの料理も期待以上においしかった。生ハムの入った一口クロワッサンとにんじんのムース、サーモンのミ・キュイ(半生のくん製)、かぼちゃのヴルーテ(クリームスープ)、黒ムツのポワレ、子羊背肉の炭火焼き。デザートは桃のコンポート。
最後に、コーヒーに添えて、出されたチョコレートやクッキーをのせた皿には、"Happy Anniversary"と書かれていた。
食後にアルマニャックもいただいて、ご機嫌なランチになった。妻も喜んでくれた様子。
きっと、同じ料理を東京で食べたら、ずっとずっと高額だろう。
次はどこへ行こうか。近くて、おいしいものがあって、手頃な値段の温泉宿。旅を計画することが楽しくなりそう。