神代植物公園のハスの花

子ども時代に心に深い傷を負った人が、傷の原因の詳細、回復する過程、その後の日常をどう生きているか、当事者の生々しい言葉が書いている。

生々しい体験談を読むことが苦手で、読み進むことがなかなかできなかった。トラウマを扱う本を読むとき、具体的な事例を私はほとんど読まないようにしている。

著者は、自分と同じように心に傷を負った人を読者として想定している。私も、その一人に入るかもしれない。思春期の体験がトラウマと呼ぶべきものかどうか、私にはわからない。ただ、大きなショックを受けて、大人になるまで心の底でわだかまりがあったことは間違いない。

身近な人を自死で亡くしたこと。理不尽な暴力を日常的に受けていたこと。私の心に残る傷はこの二つ。これがトラウマなのか。それを判断できるのは私ではないだろう。うつ病を診てもらっている医師は「トラウマではない」と言っている。

著者は、心の痛手について、少しずつでもいいから、稚拙であってもいいから、言葉にすることをすすめる。

  トラウマを負った人が書くことで、それまで知られていなかったことが明らかになることもある。けれども、そうした書き物にはケアをしながら取り組むことが大事だ。(5 あきらめという鎖をほどく方法)

心の傷を言語化するには、傷口が広がらないように、慎重に進めるべきで、適切なケアを受けながらがいいという助言には共感する。

私も、うつの症状がひどいときにはグリーフケアのカウンセリング受けられなかった

著者は、私を含めて心に深い傷を抱えている人に言葉の力を伝える。記憶を整理する言葉、傷を癒す言葉、弱い自分をなぐさめる言葉、前に進めるよう励ます言葉。

残念ながら、著者が紹介する作品や言葉はあまり私には響かなかった。その理由は私が、私なりに、私の力でそうした言葉を見つけ出し、積み上げてきたからだろう。それはここに書いてきた言葉、20年かけて積み重ねてきた言葉を一冊にまとめた本に結実した。

要するに、本書とは肌が合わなかった。もっと前に本書に出会っていたら、思索やグリーフケアの参考になったかもしれない。いまの私には、著者が本書を書くことで到達したところまで自力でたどりついたという自負がある。

本書は話題になっていて広く読まれている。私は正直なところ、ひがんでいる。

同じようなテーマで書いているのに、なぜ、私の本は広く受け入れられないのだろうか。

書いていることが共感を呼ばないのか。書き方が的確でないのか。宣伝が足りないのか。肩書きがないからか。

親しい人に手渡したけれど、感想をもらえるどころか、読んでももくれなかった。はっきり書こう。書いたものが多くの人に読まれる人がうらやましい。自分の本が読まれないことがとても悔しい。

あれ、私は本が売れることを望んでいるのだろうか。

自分に言い聞かせる。書いてきたのは読んでもらうためではなかった。自分の気持ちを整理するためではなかったか。目指していたのは、自分のためだけに表現を究めたヘンリー・ダーガーフェルナン・シュヴァルではなかったか。そして何よりも「隠れて生きよ」が座右の銘ではなかったか。

本の内容よりも、自分のなかでモヤモヤしてしまいスッキリしない読書になった。


さくいん:自死遺族体罰うつ病ヘンリー・ダーガーフェルナン・シュヴァル