キバナコスモス

『悲嘆カウンセリング[改訂版] グリーフケアの標準ハンドブック』を読んでとても勉強になったので、監訳者について調べてみたところ、ごく最近新刊を出していた。『悲嘆カウンセリング』の解題や大学での最終講義も収録されており、これまでの研究の集大成とも言える一冊。図書館にはなかったので購入して読むことにした。

まず『悲嘆カウンセリング』の解題となっている第3章を読んだ。同書のポイントが簡潔にまとめられていて理解が深まった。私にも「分断の葛藤」(故人への両儀的な感情)があり、それゆえ悲嘆が「遷延」されてなかなか緩和されなかったとあらためて思った。

もっと若いときに、できれば姉の死後すぐに適切なケアを受けられたらよかっとと悔しい思いが募る。

第1章と第2章はフロイトに始まる悲嘆についての研究史を簡潔にまとめている。これまでグリーフケアについて多くの本を読んできた。それぞれに感想を残しているけれど、古い本も新しい本も順番には読んでこなかったので、こうして系統立てて書いてあるとグリーフケアについての考え方の発展がよくわかる。

最初は一方通行で単純な段階説。次第に悲嘆の克服という考え方から故人との絆の継続や故人のいない世界への適応が重視されるようになってきた。言葉を換えれば、「悲嘆とともに生きる」考え方へと発展してきた。私自身もそのような新しい考え方に共感している。

私の場合、死別体験をモチーフにした文学絵本エッセイから読んで、あとからグリーフケアの専門書を読むようになった。本書では取り上げていないけれど、文学作品や絵本にもグリーフケアを題材にした優れた作品がたくさんある。文学や絵本から「悲しみ方」について私は多くを学んだ。

経験的には、体験談や事例を多く掲載した本は読んでいて悲しくなるので当事者にはあまりすすめない。本書でも、死別について詳細に書いてある事例研究は飛ばして読み進めた。

第5章で著者は悲しみを癒す防御的なグリーフワークに専念するのではなく、積極的に活動することをリアリティワークと呼び勧めている。著者も認めるように、これはタイミングがむずかしい。

私の場合、姉の死後、矢継ぎ早に小学校卒業中学校入学部活動高校受験、と非常に過酷な課題に向き合わなければならず、悲しみと向き合う余裕がないまま思春期を過ごした。私にとっては、リアリティワークよりもグリーフケアが必要だったと今になれば思う。

著者は生の世界と死の世界が重なる「間」(あわい)という空間を想定する。そして、この生死の重なり合った世界でゆるやかに死の世界を受け入れていく過程で、リアリティワークがグリーフワークとともに両輪として機能すると主張する。

この主張は老衰のように当人も周囲も心の準備ができる場合は適用できるけど、事故死や私が経験した自死のような突然の死別に適用するのはむずかしいのではないか。ある程度、グリーフケアが進んでからは有効かもしれない。浸り切っていた悲しみと適度な距離を持てるようになってからならば、外の世界で積極的に活動することも故人のいない世界に適応するためにも有効だろう。

複雑性悲嘆や遷延性悲嘆に対しては、社会的活動を始める前に、まずこじれた悲嘆を解くことが必要になる。私がとても有益と思った『親と死別した子どもたちへ』では、こじれた悲しみを抱えた人に対して、まず落ち着いて悲しみと向き合うことを促していた

著者の熱心な提案にもかかわらず、私が社会的な活動に対して消極的なのは、こじれすぎた悲嘆のせいだけではなく、過労やカスハラからうつ病になり、会社員として挫折したことに理由があるかもしれない。

最終章は岡山大学で行われた著者の最終講義を元にしている。ここでも著者はリアリティワークの重要性を説く。具体的には交通事故死の遺族が厳罰化の活動を行ない、その活動のなかで生きる勇気を取り戻していくエピソードを紹介している。「なるほど、そういうこともあるか」と受け止めることはできても、自分にはとてもできないと私は思う。

「前向きに」とか「ポジティブに」とかいう言葉があまり好きではない。むしろ、一見、ネガティブに見える「悲しみにとことん付き合ってみること」から、人生の意味が見えてくるように考えている。だから「悲しみの克服」という言い方を私は嫌う。悲嘆は克服したり、霧消したりするものではない。まして治療するものではない。

その延長線上で、PTSG(心的外傷後成長)をグリーフケアに援用する考え方にも私は共感しない。指導者を突然亡くした悲しみのどん底から這い上がり、以前より強い選手になる。そういうことは確かにあるかもしれない。でも、それをグリーフケアの目標にするのは違うと思う。著者もグリーフケアとPTSGやBenefit Findingの関係については、即物的に連結することに疑問を呈し、慎重に言葉を選び関連の可能性を解説している。

悲しみは人それぞれに違う。だからこそ、悲しみの奥底に、人それぞの幸せがある。そう思っている。

悲しみと向き合うことは、人によってはとても辛い。私も姉の死を受け止めて、自死遺族であることを自覚するまでに何十年もの時間を費やした。長い時間をかけて、本を読んだり、文章を書いたりして、ようやくわかってきたことがある。

「もっとも悲しいときにもっとも幸せ」という私なりの表現は、悲嘆とともに生きてこそ得られる人生の深い滋味を指している。

過去に起きた悲しい出来事を解釈しなおすことで現在をよく生きることができる。著者も同じことを述べている。

確かに"過去にどんなことがあったかによって、現在は決定されるんだけれども、現在の生き方によっては過去の「意味づけ」は変容するかもしれない、それで、過去の意味づけが変容すれば、現在の生き方もまた変わってくる"(原文太字)。

この点は著者にとても共感する。私は、森有正の言葉を借りて、過去の再解釈を繰り返しながら生きていく姿勢を「過去相に生きる」という言葉に込めてみた。

「もっとも悲しいときがもっとも幸せ」「過去相に生きる」

この二つの考え方は、私の生きる指標となっている。どちらもまだ上手にできているわけではないし、表現もまだ多くの人にわかってもらえるほどに磨かれてはいない。どう生きて、どう表現するか。そこに、私がこれから生いていく道があると思っている。

本書はグリーフケアの思想史を俯瞰し、さらに長年の臨床経験のなかで培った著者の思想を書き表している。共感できるところも多く、とても勉強になった。

あとがきで著者は『森有正との対話の試み』の著者、鑪幹八郎が恩師と書いている。この本も学ぶところが多かった。本がつなぐ不思議な縁を感じた。


さくいん:悲嘆うつ病森有正死生観自死・自死遺族

ブクログ:死別グリーフケア