今日は姉、敦子の命日。18歳と11ヶ月でが亡くなってから45年。私は小学六年生だった。今年はあの日と同じように6日に金曜日がめぐってきた。あの日も小春日和の金曜日だった。
あの日から数日間のことはよく覚えていない。映画の切り取りのような断片的な記憶だけ。いまここには書かない。
いろいろな本を読んだり、カウンセリングを受けたりしたおかげで、心境はよい方向へと傾いている気がしている。
「なぜ、なぜ」という問いかけに囚われることはほとんどなくなった。その代わり、姉の死によって自分が「どんな影響を受けて、これまでどう生きてきたか」を考えたり、そういう自分が「これからどう生きるのか」考えたりするようになった。
執着が解けてきた、と言えるのかもしれない。わざと悲しい気持ちになるために、日記を読み返すこともなくなった。でも、今日はとても悲しい。これが記念日反応というものか。
彼女は精一杯に生きた。そして亡くなった。それだけのこと。どう亡くなったのかはどうでもいい。そう思いながらも、ためらいがちに投稿した一文には「自死遺族」というタグをつけた。ここにまだ私の「執着」、悪い意味での「こだわり」が残っている。
どう生きたいか、を考えるようになったと言っても、何も新しいことはしていない。
職業人としてはもはや昇格も転職もない「終わった人」になっているし、何か世のため人のためになることができているわけでもない。
強烈なうつ状態に陥ることは最近ではほとんどなくなった。でも、手帳を持つ「精神障害者」という属性は変わらない。何に対しても「やる気」が出ない、虚無感が強い。
新年に誓ったのに、相変わらず怠惰な暮らしを送っている。何もしないでボンヤリしている時間が多い。寒いので夜は早く寝て、朝は遅く起きている。読書も英仏語の学習もまったく捗っていない。
そんなときに慰めになるのが書くこと。その日の出来事やいっこうに上向かない気持ちを書きとめるだけでも十分に愉快な手遊びになる。
文章を書いたり、索引を整理したり。自分だけの時空を楽しむ尊い時間。
書くことが好きなので、ずっと先の日付の記事まで書いている。日記に見えるこのブログも実はずっと前に書いたもの。常に2週間くらい先まで書いている。書いたあとで推敲したり、校正したり、リンクを追加することもある。
何度も書いているけれど、『庭』は私にとってはシュヴァルの理想宮のような場所。誰にも邪魔されない、私だけの空間。
金曜は「体調不良」ということにして会社を休みにした。今年は丸一日、姉のことを思い出す日にしたかった。幸い、月初の仕事も一段落ついて、天気もよかったので丸一日感傷に浸るために外へ出た。私が休みを取った理由を妻は察して温かい言葉で送り出してくれた。
三木清は『人生論ノート』で感傷という情動を、「主観的で、個性がなく、マンネリズムに陥っている」とかなり強く否定していた。悲しみと懐かしさに包まれた昨日の私の「感傷」も否定しただろうか。一年に一日くらい、こんな気持ちに心と身体をゆだねてもいいだろう。「感傷」が許される時間があってもいいと私は思う。
向かったのは野川公園。ほんとうは姉が通ったICU(国際基督教大学)に行くつもりだったけど、調べると入試期間中で構内立ち入り禁止。そこでICUの裏にある都立公園へ行くことにした。
ちょうど赤坂憲雄『いくつもの武蔵野へ』の感想を書き終えたところだったので、赤坂が描写した武蔵野の原風景を見たい気持ちにもなっていた。
公園では梅が見頃を迎えていた。このところずっと雨が降っていないので、川も水は流れていなかった。それでも、「ハケ」と呼ばれる国分寺崖線に沿って雑木林を歩いて〈武蔵野〉を体感することができた。
姉と過ごした数年間の出来事を思い出しながら歩いたけれど、天気がよかったおかげか、不思議と悲しい気持ちにはならなかった。
散策のあとは、ICUの正門まで歩き、バスで三鷹まで戻った。午後はカラオケ。挽歌特集。前に作った寒梅忌のためのプレイリストからカラオケにある曲を歌った。挽歌を歌うことは追悼の行為であり、同時に自分の悲しみをなだめるグリーフワークでもある。
カラオケはストレス発散にもなるし、口腔フレイルの予防にもなる。いいことづくめ。
3時間以上歌って満足した。なかでもさかいゆう「君と僕の挽歌」と米津玄師「Lemon」は歌いながらグッと込み上げてくるものがあった。
最後に、明るく爽やかなメロディで亡き人を悼む大滝詠一「君は天然色」(松本隆作詞)を歌った。
12,000歩。よく歩いた。
28日は45年前に亡くなった姉の誕生日。誕生日を祝う前に、彼女の命日、2月6日について書いておく。2月6日が姉の命日と書くまでには長い月日が必要だった。
以前は姉の命日には仕事を休みにして、感傷に浸れる場所を訪ねていた。2003年には稲村ヶ崎から七里ヶ浜まで砂浜を歩いた。そのことは、翌年の2月に振り返るように書いた。まだ2月6日がどんな日か、明らかにする勇気がなかったから。
2004年には姉が通った大学へ行った。その学校は私が大学院で学んだ学校でもある。そのときも、すぐには書かず、しばらく経ってから書いた。
2月6日がどんな日か、遠回しに書くようになったのは2008年のこと。寒梅忌という言葉を思いついたのは、それからさらに8年後の2016年のこと。
2月6日が姉の命日とはっきり書いたのは2020年。それも『庭』の表である日記ではなく「裏庭へ続く木戸を開けて」という文章のなかでのこと。
Twitter(現X)では2019年に「寒梅忌」と投稿しているけど姉の命日とは書いていない。はっきり書いたのは2021年。
自死、あるいは自殺は、「公認されない死」と言われ、「社会的に話すことができない喪失」(socially unspeakable losses)とも呼ばれる。
こうして振り返ってみると、そうした言葉の通りに、ためらいながら私は歩んできたことがよくわかる。
ずっと秘密にしていたことを、いまは少なくとも"ここ"ではためらうことなく書けるようになった。それは"ここ"は読みたい人だけが来る場所だから。
文章でさえためらってきたこの秘密を打ち明けるにはとても勇気がいる。その秘密を知り、交際を拒絶する人は去ればいいし、無視するような人なら私の方から遠ざかる。
その結果、友人が減っても一向にかまわない。孤独を私は恐れない。
さくいん:自死遺族、悲嘆、うつ病、シュヴァル、孤独、悲しみ(悲嘆)、三木清、さかいゆう、米津玄師、大滝詠一、松本隆、秘密