稲村ヶ崎
7/1/2026/WED
哲学の動機について
ハスの花 ピンクのガクアジサイ 白いアジサイ 熱帯スイレン

西田幾多郎が哲学の動機について残した言葉はよく知られている。

哲学の動機は『驚き』ではなくして深い人生の悲哀でなければならない

この言葉に私は強く共感してきた。ただ、最近になって少し受け止め方が変わってきた。

まず、西田幾多郎の「でなければならない」という言葉遣いには注意が必要。「でなければならない」は英語の"must"と同じように二つの意味を持っている。一つは当為。そうである必要がある、という意味。もう一つは当然。そうであるはず、という意味。西田の場合、二つ目の意味で使っていることが多いように感じる。

そう考えると、「哲学の動機は」の一文は、すべての哲学がそうでなければならないという意味ではなく、「哲学の動機は悲哀のはず」と読むことができる。そのように読むと、西田は他の哲学者に「悲哀」を要求しているのではなく、控えめに自分の哲学がそうであることを指摘しているに過ぎないのではないか、と思われてくる。

実際、西田が何を意図していたかはともかく、私個人は、すべての哲学が悲哀を動機にしなければならないとは思わない。

なぜなら、痛切な悲哀や悲嘆を感じない人生を送る人もいるから。そういう人にとっては、哲学の動機は悲哀にはならないだろうし、驚きであってもいいと思う。

西田は明治・大正・昭和の敗戦の年までの長い人生のなかで多くの身内や弟子を失った、まさに悲哀の人だった。

最近、世の中にはそういう人ばかりでないことに気づいた。死別体験のない人はいないとしても、心が痛むほどの苦しい悲嘆を感じずに一生を終える人もいる。そして、最近強く思うことは、そういう人には、悲しみとともに生きる人の気持ちはわからないのではないか、ということ。悲しいかな、それが現実ではないか。私の周りには、想像力に欠けた人が多い。

写真は6月に撮影した花の写真から4枚選んだ。

4月と5月は娘の結婚式息子の顔合わせで終わった。その緊張と疲労の回復にあてていたところ、6月はあっという間に過ぎていた。


さくいん:西田幾多郎明治悲嘆


7/2/2026/THU
双子のさくらんぼ
双子のさくらんぼ

妻が職場でさくらんぼをいただいた。実家が農家の人がいるらしい。

今年はさくらんぼを買っては食べなかったので、ありがたいおすそ分けだった。

たくさんいただいたさくらんぼのなかに、一つ、ふたなりのさくらんぼが混じっていた。

これは珍しい。そう言い合って、なかなか食べられなかった。

珍しい姿を写真に収めて、妻が食べた。