露天風呂の壁の岩

日経新聞書評欄に最相葉月が書いた短評で知った本。新しい本なのに、図書館に予約したところ運よくすぐに順番がきた。専門書なので書評ほど簡単には読めなかった。

数人の悪い例のせいで、脳科学という言葉に胡散臭さを感じている。だから、本書を読むこともすこしためらっていた。読みはじめて脳科学の調査や実験結果、それらを説明する譬え話に何度もうなずいた。

読み進めていくうちに、この本はグリーフケアをいわばライフワークにしている私にとってとても有益ということがわかった。そこですぐに購入して、付箋を貼ったり、メモをとったりしながら読むことにした。

本書は前半で悲嘆(grief)が脳内でどのようなメカニズムで生じるかを論じている。悲嘆とは「自己の愛着欲求を満たし、アイデンティティーや生活の一部と化している、特定の人の喪失によって引き起こされ、苦痛として顕現する」もの(第2章 親密さを求める)。

キーワードは、仮想マップと予測機能、という脳の機能。そして、人間が知覚する、空間、時間、親密さの三次元。

赤ん坊は親が目の前から離れると泣く。少し成長すると、目には見えなくても隣の部屋にいると推測できるようになる。やがて親が仕事で一日離れていても、やがて帰ってくるだろうと予測できるようになる。

このように親密な人との関係が強固に構築されると、その人が永遠にいなくなったことを理解することがむずかしくなる。それは脳が「いなくなったのに永遠にそばにいると考える」傾向があるから(「第3章 魔術的思考)。

だが、最愛の人はもはやこの世にいないと理解することは容易ではなく、それには時間がかかる。というのも、最愛の人は「ここ」(空間)、「今」(時間)、「親密さ」に関する情報とともに脳にコード化されているからだ。(「第3章 魔術的思考」)

ここで、私は一つ疑問に思う。三つの次元でコード化された大切な人が不在になることを理解するのは難しい。それはわかる。私を含めて、幼少時に大切な人を亡くした人は、もう一つ、違うコードを持つ。それは「大切な人は突然にいなくなることがある」という不安と恐怖。妻や子どもの帰宅が、いつもより少し遅いだけでも不安になる。「何か、深刻な事態が起きていないか。もう二度と会えないのではないか」。この不安は、幼少期に喪失体験をした者にしかなかなかわからないかもしれない。

このような、過敏とも言える不安を抱える人はおそらく少ない。死別体験者のほとんどはうつの症状を持たない「回復型」と著者は指摘する。「複雑性悲嘆」や「遷延性悲嘆」、私が抱える過剰な不安など、病的な症例は非常に稀。だから過大に診断してはいけないと本書は警告している。

われわれは、複雑性悲嘆を経験している被験者における、今はいない最愛の人を思い起こさせる手がかりに反応して生じる報酬システムの活性化を、生前と同様に個人を思慕し続けるがゆえに引き起こされると解釈している。回復型の被験者に関しては、このような報酬システムの活性化は起こらないと脳が予測していると考えられる。(第6章 最愛の人に対する思慕)

最相葉月は書評のなかで、伝統的な死別体験受容の段階説を本書が否定していることを重視していた。段階説の否定をしたのは本書が最初ではない。研究史の概略を読んでも、悲嘆心理学においては単純な段階説は早くから否定されている。そこは必ずしも驚く点ではない。

本書の驚くべき点は、悲嘆を生物学的な反応として分析したことにある。この分野の研究がさらに進めば、複雑性悲嘆の厄介な症状に対して薬物療法が可能になるかもしれない。この点にこそ、本書の価値があると私は考える。もちろん、記憶を扱う薬物の開発には慎重さが必要だろう。


後半は服喪(grieving)、つまり、悲嘆との関わり方、悲しみに順応していく過程について脳内の動きを詳述している。

(服喪とは)最愛の人の不在に関する知識が、いかに時間の経過につれ書き換えられていくのか(「第4章 順応」)

ここでも、重要なこととして著者が指摘するのは、多くの人は複雑で深刻な苦闘を経なくても服喪を完遂できるということ。著者は「喪に服している人は、そのような感情(否認、抑圧、死にたいする感情など)と格闘せずに時を過ごしたほうが有益な場合がある」という事実(「第4章 順応」)を繰り返し指摘している。それだけ、服喪の過程はネガティブなものと広くとらえられているからだろう。これまでに読んだ悲嘆にかんする本を思い出してみても、心理学の専門家には、極端な症例を一般化しすぎてしまう人も少なくない。あるいは、私を含めて読者の方が極端な症例を自分に当てはめがちなのかもしれない。

服喪を首尾よく済ませ、悲嘆に順応するためには、悲嘆の段階説でよく言われる「受容」(acceptance)ではなく、動的な「受け入れ」(accepting)の姿勢が必要と著者は説く。「受け入れ」とは「順応」することであり、嫌々「受容」したり、ましてや「克服」したりするものではない、と著者は力説している。

   ここで明確にしておくと、誰かの死を受け入れることと、その死をあきらめることのあいだには違いがある。受け入れの場合には、その人が亡くなったこと、二度と戻ってこないこと、すでに起こったできごとは変えられないこと、後悔や別れは過去の一部であることを本人が承知している。つまり受け入れは、故人を忘れることなく故人のいない現在の生活に焦点を絞る。あきらめはそれに加えて、「最愛の人は死んだのだから、あなたは二度と幸福にはなれないと思い込ませる。そこにはネガティブな結果しかないと思いこませるのだ。(「第8章 過去に浸る」)
(前略)受け入れとは、たった今感じていることに気づき、忌憚なく涙を流すことなのである。(「第8章 過去に浸る」)

ここにも、激しく泣くこと、いわゆる手放し泣きの重要性を指摘する人がいた。

さらに興味深い指摘は、個人を意識的に思考することよりも無意識の行動(例えば、死別した夫の服を洗濯しない)を積み重ねることで悲嘆の症状が緩和されるということ。肩肘を張り、顔をしかめて「グリーフケア」に臨むよりも、「いま」必要な行動を積み重ねることが悲嘆の緩和に役立つという。この指摘には驚いた。

故人に関する意識的な侵入思考は、より強い悲嘆に結びつく。侵入思考は、回避しようとすればするほどそれだけ頻繁に生じる。その一方、無意識的な処理は悲嘆の緩和に結びつく。(中略)心が迷走しているあいだに生じる無意識的な行動は有益だと考えられる。(「第9章 現在の瞬間に生きる」)

「亡くなった人は遺族の心に生きている」。よく言われる慰めも脳科学は証明する。脳内に最愛の人が亡くなったあとでも、その人と過ごした「空間」「時間」「親密さ」は記録されていて失われることはない。ここで科学者である著者は「愛」という言葉を持ち出す。

服喪の軌跡が、必ず失われた最愛の人の忘却に至るわけではないことは言うまでもない。科学的な事実を言えば、二人で一緒に過ごした時間や親密な絆を結んでいた頃の経験は、脳内の神経結合や化学物質による影響という形態で保存されており、忘れることは決してできない。(「第8章 過去に浸る」)
二人で過ごした経験のゆえに、最愛の人と愛は自分の一部になり、現在と未来において必要なときに思い出し、それに基づいて行動することができるのである。(「第9章 現在の瞬間に生きる」)

過去と現在と未来は、脳内で間断なくつながっている。そして、過去・現在・未来を結ぶ「回顧と予見が神経装置を共有している」ことも、神経科学で証明されているという。

   最愛の人が含まれない未知の新たな未来を想像する能力は、過去を思い出すときに動員される脳のネットワークと類似すると考えられる。(「第10章 未来をマッピングする」)

我田引水を承知で書くなら、「過去相に生きる」という、森有正から私が学んだ生き方は、まさに過去の記憶を大切にしつつ未来へ向けて生きる姿勢を指している。

本書は、大切な人を亡くしたとき、人はどういう行動をとりがちで、そのとき、脳(心)ではどんな反応が起きているかを客観的に示してくれる。しかし、最終章で著者は、科学者や医師、心理士は、悲嘆に順応することを支援することはできても、一人一人の人生や性格は異なるから、順応していくことは当人の努力に委ねられていると結んでいる。

この結語は、読者を突き放すのではなく、むしろ、読者へのエールであり、信頼でもあると私は思う。私の悲しみは私だけのもの。だから、順応すること、すなわち「悲しみとともに生きていく」ためには、私が努力しなければならない。


本書は専門書として新しく有益な知見をたくさん与えてくれる。同時に、読み物としても、とても面白い。

専門書ではあるものの、ところどころでわかりやすい喩えや、著者の実体験やそれに基づく考察が書かれている。そうした部分を読むと、「悲嘆」というテーマに対し著者が非常に深い個人的な動機を持っていることがわかる。

言葉を換えると、そうした件りはいわゆるパーソナル・エッセイ的で、著者のこのテーマに対する動機がよくわかる。エッセイ好きの私には非常に面白く感じられた。


さくいん:悲嘆日経新聞最相葉月森有正エッセイ