学習院大学キャンパスのアジサイ

社会学にはあまり馴染みがない。とくに死別体験や悲嘆(グリーフ)について考えるときは心理学や精神医学の本を参考にすることが多く、社会学的な文脈で考えることはなかった。本書もそれが一般的な受け止めと指摘している。だから、死別体験を社会学的に考察するという視点がまず興味深いものだった。

通読はできず、興味をもった章を選んで読んだ。

序章にあった社会学的視点から見た現代の死別体験。

(前略)ゴーラーは、社会的に共有された哀悼の儀礼、それによる社会的支援が欠如していることが、悲嘆を個人的に引き受けるという社会状況を生み出し、さらにはそれがときとして心理的に困難な状態を個人にもたらしていることを明らかにしていく。(澤井敦「序章 「死別の社会学」とは何か」)

宗教や共同体の儀礼がなくなり、死別体験で受けた悲嘆の順応(回復や克服ではない)が困難になっていることは島薗進も指摘していた

澤井はさらに人間関係が希薄になっているため、かつては深い悲しみをもたらした死別体験でさえ希薄になり、「死の凡庸化」が生じていると説く。

つまり、生活のなかで「別れ:が繰り返され、いわば死がそこで「隠喩的にリハーサルされる」ことによって、死別、そして死も、それほど絶対的な終焉とはみなされなくなるという事態が現出可能になる。言い換えれば、「別れ」の凡庸化が、「死別」の凡庸化、さらには「死」の凡庸化へと、半ば無意識のうちにすり替えられていくのである。(澤井敦「第2章 リキッド・モダン社会のなかの死別)

こういう状況は体感的にわかる。深い付き合いがないから、別れても悲しくない。むしろ悲しくなりたくない、傷つきたくないから深い付き合いを回避するという面も、現代の人間関係にはあるように思う。

現代は多死社会である一方、高齢の天寿を全うした死が多いので、近しい人の突然の死という体験をする人は多くない。私の子どもたちもそう。若者が死別体験を新鮮に感じていることは米田朝香「第6章 死別体験をとらえる視線」を読んでもわかる。

ならば、あるいは、だからこそ、自死、事故死、災害死などといった、突然で苛烈な死別体験から凡庸ではない、深く重い悲しみを感じられるとしたら、それは凡庸ではない関係で故人と結ばれていたという証と言い得るだろう。

それは、逆説的な言い方をすれば、人間的な意味でとても幸せなこととさえ、言い得るのではないだろうか。


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